彼の打ち傷によって

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まことに、彼は私たちの病を負い、 私たちの痛みをになった。 だが、私たちは思った。 彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。 しかし、彼は、 私たちのそむきの罪のために刺し通され、 私たちの咎のために砕かれた。 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 イザヤ書五三・四〜五

冬の旅

今ではもう遠い昔、季節が冬からようやく早春に移ろうとする十代の後半、友人と 二人で北の街に旅をしたことがあります。

正確には一緒に旅をしたのではなく、その街で待ち合わせることにして、それぞれ 別々に出かけたのでした。

街に着き、友人との待ち合わせの時間までに、私にはもう一つの約束がありました。 その地に住む知人が街を少し案内してくれることになっていたのです。時間的には重 ならない約束のはずでした。

しかし親切にあちこち案内してくれる知人に、次の約束の存在を伝え損ねているう ちに時間は過ぎてしまいました。お互い外に出ていては、連絡のしようもありません。

「まあいいや。夜にでも電話してあやまれば。友人付き合いにこんなことはしょち ゅうだ。お互いさまだろう」。そう思いながら、夜、宿から電話をしようとした矢先 に友人の方からかかってきました。思いもかけず怒りに満ちたその声は「お前までそ んな奴だとは思わなかった。クリスチャンのくせに」と言い放って一方的に切れまし た。

そう言われても仕方がないのは当然ですが、それにしてもいつもとはまったく違っ た口調が気になります。やっぱり一言だけでも直接あやまろうと、雪に覆われた冬の 夜の街に出て市電に乗り、駅の反対側の商店街の裏にようやく彼の宿泊場所を見つけ ました。

親しい友

「なんだ。わざわざ来たのか。よかったのに。・・新聞読んだだろ。読んでないっ て。まあいいさ。ともかく俺は明日の朝一番で帰るから、悪いけど旅は一人で続けて くれ。」

思いのほか上機嫌の彼とお茶を飲み、よく訳の分からないまま再び雪道を踏みしめ て自分の宿に戻り、連れ込み宿にも似た寂しい安宿のフロントに声をかけて新聞を借 りました。どの新聞でもよかったのです。あとになって知りましたが、その日の新聞 は、地方紙も全国紙も、一面も社会面も、一つの記事に満ちていました、「○○、△ △容疑で逮捕」。掲載されていた顔写真に付された氏名は、苗字が友人と一緒でした。 逮捕されたのは、勤め先に殉じたとも言える彼の父親だったのです。

友人の家にかつて遊びに行った時の、いかにも旧軍人の家庭らしい、隅々まで整え られ、シンと静まり返った雰囲気が一瞬心をよぎりました。その日の午後この出来事 に混乱する気持ちを抱いたまま約束の場所に立ち、ついに現れることのなかった友を 待ち続けた彼のやるせなさを思いました。「クリスチャンのくせに」という彼の電話 の声が、一面の雪に覆われた夜の闇の中で響き続けていました。

私は幼き日から教会に行っているクリスチャンとして、できるだけ誠実に生きよう、 良き友であろう、と心掛けていました。その私が、友人が最も友情を必要とする時に 居合わせることができなかった、支えとなることができなかった。むしろ結果的に裏 切りとなり、傷を負わせるようなことをしてしまった・・。

自分たちの町に帰ってから、友人は以前と変わることなく接してくれましたが、こ のことは私にとって何年にもわたって他人に語ることのできない、深い負い目となり ました。

クリスチャンのくせに「あなたの友・・を捨てるな」(箴言二七・一〇)との聖書 の教えに適うことができなかったのです。

友なるイエス

結局、この出来事を通して私は三つのことを学びました。

第一に、良き友であろうとする、そんな単純な(「簡単な」とは思いませんが)願 いすら、全うすることはできないということ。

第二に、イエス・キリストは「私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私 にそむいて、かかとを上げる」(詩篇四一・九)と預言にあるとおりに、親しい友た ちに裏切られて捕らえられ、十字架に向かわれたこと。

第三に、だからこそ主イエスは、決して裏切ることのない、唯一の真実の友として 私たちに接してくださること。

どれもあたりまえのことですが、知っているのと実感するのとは全く別のことです。

さらに言うならば、「時は戻らない」ことも実感しました。私たちが神の前に出る のに遅すぎることはないでしょう。生きているかぎりやり直せないこともないでしょ う。けれども、一つの行動が二度と取り消せないこともまた事実です。あの日、最も 必要とされていた時に友人となりえなかった事実は、決して消えません。

あの出来事は、偶発的な事件に左右された失敗だったのでしょうか。そうだともそ うでないとも言えます。その後の私の生き方にあの時の失敗がはたしてどれほど生か されているかを考えると、同じような失敗がなかったとしても、それは事件に遭遇し なかっただけの僥倖(ぎょうこう)でしかありません。

キリスト教が、人生を向上させるための修行のようなものだとしたら、少なくとも 私に関するかぎり、道は未だ遠く、その成果は何ら誇れるようなものではありません。

あの日から何回新年を迎えたことでしょう。幾度転機を迎えたことでしょう。どれ ほど旅に出たことでしょう。その都度変化を期待して、結局変わらない頑固な自分に 気付かされるだけのことでした。

ただ、年とともに実感させられるのは、その頑固な私の罪を負って十字架で死に、 よみがえってくださった主イエス・キリストが、罪の赦しを宣言しつつ、真実の友、 変わることのない同伴者として、生きる時も死ぬ時も私と共にいてくださることです。 これこそキリスト教の真髄だ、と今の私はお薦めします。

「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」第一ペテロ二・二四

『百万人の福音』いのちのことば社,1996年1月