朝5時半。人影まばらな駅で、キャンプに出かける子供たちを見送ったとき、箒とちり取りを持ってロータリーを掃除する人がいた。私たちは、ゴミが落ちてなくても当たり前と思い、このような奉仕がなされたことに気づくことは無いだろう。人の知らないところで黙々と人のために働く・・・なかなかできないことだ。
考えてみると、私たち主婦も、家族のためにあれやこれや、いろんな家事用事をこなしているが、その多くは家族の目に触れることはない。365日ほとんど休みの無い、そして感謝されることの少ないそれらの仕事に、時として愚痴をこぼしながらも、家族のためにと思って頑張っている。
イエス様が十字架にかかられたことは、子供の頃から何度も聞いて、「当たり前」になっていた。何でもできる神様だから、大した苦労は無いと思っていた。しかし、聖書を何度も読み、人生経験を重ねるに従って、人となられたイエス様がどれほどの汗と涙をもって人に仕え、どれほどの痛みと苦しみを味わいつつ全てを捧げられたのかを、ほんの僅かではあるが想像できるようになってきた。
世の中に、「当たり前」は無いと思う。陰には必ず努力や工夫や愛がある。美味しい食事は作った人の労苦の賜物であり、きれいな道路は掃除する人が居るからだ。宇宙も地球も、神様が私たちのために知恵を絞って創ってくださった最高傑作だし、イエス様の十字架による救いは、私たちへの思いのぎっしり詰まった、神様からの最高の贈り物に違いない。
知り合いの夫婦と雑談していて、話の弾みで、美しい奥さんから、「浮気したいと思ったことはありますか?」と聞かれたことがある。(断っておくが、2人ともまじめな方で、クリスチャンの考え方への質問である)
思わず「私の辞書には浮気という言葉はありません」と答えて大変驚かれた。
何でそんなに驚くのか、こちらも驚いた。
キリスト教の結婚式には、「神の教えに従い・・常にあなたの夫(妻)を愛し・・死が2人を分かつまで、健やかなときも病むときも、・・・堅く節操を守ることを誓いますか?
という誓約がある。
これは当たり前のようでいて中々実行困難なときがある。弱い人間同士だから、何度も衝突や危機に遭遇することがある。
危機なんてありませんといううらやましい夫婦も中にはあるが、それはそれとして夫婦の危機こそ人が自己・他者の関係に目醒まされ、己の小ささを知り、愛することがいかに難しいか、そして、まるで愛される値打ちもない私たちを愛してくれたキリストの愛の大きさを知るときである。それは神様からの教育の場であり、人生の深い味わいの一つでもある。
このごろ、これを面倒なこととして、結婚を望まないという若者が増えているようで困ったことである。
私は学生時代、ある病のため悩んでいました。それは誰にも話せない苦しみでした。
ある時、母のように慕っていた女性牧師に勇気を出して悩みを 打ち明けたところ、
「恵まれた女よ、おめでとう。(ルカ1: 28)」という聖書のことばをいただきました。
「あぁ、やっぱり私の苦しみは誰にも分かってもらえないんだ。何が恵みだ・・・」
と私は傷付き、更に落ち込みました。
それから治療は何年もかかり、今も完治したとは言えません。
しかし、数年の時を経て今、思うのです。私にはこの病が“恵み”である と。
この病によって私は悩み、苦しみ、楽しいはずの青春時代を常に怯えながら過ごしました。しかし、この経験がなければ、私はイエス様の愛に 顔を背け、高ぶり、この世の誘惑に負け、今とは全く違った人生を送って いたかもしれません。
また病気で悩む人の苦しみも知らず、「私の人生なんだから」と自分勝手な日々を送っていたかもしれません。
ところが、主が言われた。「私の恵みはあなたに対して十分である。わ たしの力は弱いところに完全にあらわれる。」それだから、キリストの力 が、わたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
(第2コリント12:9 口語訳)
中3の娘は、吹奏楽部に所属している。
定期演奏会に向け、練習に励んでいた、本番の3日前、
部員の友人との間で、あることをめぐって、心情的に深刻な
トラブルが生じた。
ショックを受け、怒りやとまどいで、心は大荒れ。
翌日、娘はその友人と向き合い、
自分の感じた率直な気持ちを伝え、友人の気持ちを聞き、
互いに理解を深め、和解をした。
「仲間と心が離れていたら、いい音楽が創れないんだよ。」
この素早い行動、自分から歩み寄る勇気、和解のあとのさわやかさ。
そうか・・・。 たった2人の心のさざ波も、メロディーやハーモニー
にのって聞こえてしまうんだね。
音楽を愛し、よい演奏をしたいと願う、その真剣な心。
マタイの福音書 5章23節のことば。
「あなたが、祭壇に供え物を献げようとし、
兄弟が自分に反感をもっているのをそこで思い出したなら、
その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りし
それから帰ってきて、供え物を献げなさい。」
私も 毎週、喜んで礼拝を献げるために、
自分の心を ていねいにみつめ、整え、新しくしていきたい。
「ラブレター」。なんてくすぐったい言葉だろう。最近はEメールなどのおかげで紙とペンで手紙を書く機会がほんとうに少なくなったが、私もかつて、主人と遠距離交際中、週に二度は手紙を書き、お互いの近況や、思いなどを手紙にしたためて送り合ったものだった。
手紙に切手を貼ってポストに投函した後、「この手紙いつ向こうに着くかな?」「私のメッセージ、きちんと伝わるかな。」等々、自分の書いた手紙を開いて読む相手の姿を想像しつつ、次の手紙が届くのをそわそわしながら待っていたことが、昨日のことのように思い出される。
神さまは私たちに「聖書」というラブレターを通して「神の愛」のメッセージを送り続けておられる。私たちが聖書のページを開いて読むとき、神さまはどんな風に私たちのことを思っておられるのだろう。
「わたしの思いが伝わりますように。」とか、「この言葉によって励まされ、わたしの愛を受け、わたしのこと がもっとよくわかりますように。」とか、そんな思いで、読む私たちひとりひとりを見守っておられるのだと思う。
23年前、一冊の聖書が私の手元に贈られたことに、届いたことに、感謝せずにいられない。神さまからの「ラブレター」がまだ届いていない国々があるという。民族があるという。村々があるという。人々がいるという。聖書が一人でも多くの人に届けられるよう、神の愛のメッセージが伝わるよう、小さな私にできることは何だろう。
春のゴスペル教室が始まりました。
今期も素敵な曲がたくさん用意されていますが、その中で、特に私の心を
捉えた曲があります。
We fall down but we get up
We fall down but we get up
We fall down but we get up
For a saint is just a sinner who fell down
And got up
Get back up again
Get back up again
Get back up again
Get back up again
Get back up again
For a saint is just a sinner who fell down
And got up
私たちは倒れる。でも立ち上がる。
私たちは倒れる。でも立ち上がる。
私たちは倒れる。でも立ち上がる。
聖徒とは、倒れても起き上がった
罪人のことなのだから。
また、立ち上がれ。
また、立ち上がれ。
また、立ち上がれ。
また、立ち上がれ。
また、立ち上がれ。
聖徒とは、倒れても起き上がった
罪人のことなのだから。
特に説明らしき言葉も無ければ、「神様」という言葉さえ出て来ません。
We fall down・・・とGet back up againとFor a saint is・・・という
三つのフレーズの繰り返しに過ぎません。
しかし、このシンプルなフレーズを繰り返すうちに、不思議と心が
熱くなってきます。
絶えず注がれる熱いまなざしや、差し伸べて下さる御手、そして、
私たちが真実に立ち上がれるようにと、成して下さった贖いの御業(※)が
胸に迫って来て、思わず涙声になってしまうのです。
嬉しくて、大声で歌いたいのに、なかなかちゃんと歌えそうにありません。
※イエス・キリストが私たちの罪の罰を代わりに十字架上で
受けて下さったこと。
先週の日曜日、ある教会で二人の少女の信仰告白式が行われた。
小さいときに幼児洗礼を受けた子供が成長して、自分の意思で信仰を言い表し、教会に加わる式である。
一人は中学3年、もう一人は小学校3年。小3はいかにも幼い感じだが、家族の病気に際し、真剣な祈りと、その結果の神さまの応答に手ごたえを感じて、自らクリスチャンになる決意をしたそうである。
神さまは求める者にご自身を啓示してくださる。そこに年の差はあまりない。むしろ幼い者にこそ見えているものもあるであろう。
この子は私の孫である。これから世の波風の中を、イエス・キリストに守られて歩んでほしい。
−−イエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです−−ルカの福音書18:16−
クリスチャン作家が書いた、アメリカで100万部以上売れている絵本、
「たいせつなきみ」。この絵本の舞台は、木彫りの小人の社会。
彼らには奇妙な習慣があり、お互いに、才能や美しさを認めると、金色の星シールを体に貼り、逆に失敗をしたり、見栄えが悪いと、灰色のダメ印シールを貼り合う。
ある小人の男の子は、どんなに頑張ってもダメ印ばかり貼られて、自信をなくす。ある日、星もダメ印シールもついていない女の子に出会い、びっくり。うらやましくなり、どうすれば、シールがくっつかなくなるのかを、自分を創ってくれた彫刻家に聞きに行く。
彫刻家は、男の子のダメ印だらけの姿を見て、語りかける。
「随分たくさん付けられたね。シールを貼り付けているのは、お前と同じ小人たちだ。みんながどう思うかは、たいしたことじゃない。
大事なのは、この私がどう思っているかで、私はおまえをとても大切に思っている。シールがくっつくようにしていたのは、お前自身なんだ。
私の愛を信じるなら、シールなんてどうでもよくなるんだよ。」
この言葉の意味がわかった瞬間、男の子の体についていたダメ印シールが1枚、ぽろっとはがれて地面に落ちる。
彫刻家は神さま。小人はわたし。わたしは愛されている、神さまに。
この絵本を読むたびに、聖書の言葉が心に響く。
「真理はあなた方を自由にします。」ヨハネ8の32
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